2020年12月30日水曜日

秩父セメント(3)

  ある時ネットで、週末探検隊という集合体が出している「廃墟・遺構探索05 秩父セメント秩父第一工場」という本があるのを見つけた。早速、AMAZONで購入した。

 しかし、A4版12ページの冊子風のもので、全体像をうまく捉えることはできなかった。


 著作権法からすると問題があると思うのだが、世の中に大きな影響を与えていないブログ上のことなので許されると考え、その一部を掲載する。


 なお、発売は2010年である。


 

 

2020年12月12日土曜日

秩父セメント(2)

  秩父セメントの歴史を知るには、1974年に出版された社史「秩父セメント五十年史」を読むのが良いと思われるが、そんな余裕も今はないし、そもそもこのブログは筆者と対象企業との関係(思い出)を書くためのものであり、社史そのものを詳細に書くことは趣旨からして外れている。いずれ相当暇になったら読むつもりではいるが。
 「秩父セメント五十年史」概要:渋沢社史データベース
 写真についてもGoogleで検索するといろいろ出てくるので、それを参照したいのだが、余りに多く、この項では割愛する(Google検索による秩父セメントの写真)。

 さて、ここからが今回の本題に入る。今回は手持ちの資料を主に、私が秩父に暮らしていた時代の秩父と秩父セメントについて書いてみたい。
 以前、NHK総合テレビのブラタモリという番組で秩父を取り上げたときに、”秩父はず〜っと日本を盛り上げた!?”、と言っていたのを思い出し、図書館で「ブラタモリ 秩父長瀞大宮室蘭洞爺湖宮崎」を借りて、その内容を確認した。ブラタモリ(単行本)には、次のように書かれている。
 『武甲山は実はセメント原料になる石灰岩の山。なんと昭和30年代には採掘量全国1位も記録しています。高度成長期、武甲山のセメントはビルや高速道路の建設に使われました。つまり、日本のインフラを支え、都市の発展を「盛り上げた」のは武甲山の地質!』
 ちょっと、日本語としておかしいところはあるが、事実であるのは間違いないだろう。武甲山のセメント、と書いてはいるが、武甲山の石灰岩を原料としたセメントと置き換えるべきだろう。武甲山も秩父セメントも、秩父の誇りであった。いや今も誇れる存在である。

 手元にある1953年(昭和28年)刊行の秩父市観光課のパンフレットに拠れば、秩父セメントの生産量は年50万トンであり、1955年(昭和30年)刊行の岩波写真文庫「埼玉県ー新風土記ー」に拠れば年70万トンであった。1986年(昭和61年)刊行の”とんぼの本”「秩父路50年」には1953年(昭和28年)から1970年(昭和45年)までの生産高推移グラフが載っていた。前項に載せた日本全体の生産高と比べて見れば、秩父セメントの生産高は10分の1くらいだが、都市圏に近いので日本のインフラを支えた、と言っていいだろう。
(秩父路50年より)

 「埼玉県ー新風土記ー」と角川写真文庫「秩父」(昭和30年刊行)には第一工場の、そしてアサヒ写真ブック「秩父多摩」(昭和35年刊行)には第二工場の当時の写真が載っていた。残念ながら手持ちの資料には、この程度の情報しか載っていなかった。
(岩波写真文庫より) 
(角川写真文庫より)
(アサヒ写真ブックより)
 ”谷口吉郎氏の設計で公園工場といわれ、花壇あり噴水あり、クローバーのグリーン・ベルトもある”





秩父セメント(3)